2010年3月20日土曜日

1882年開拓後の鬱陵島調査員

■1882年、李奎遠は、高宗の命によって、鬱陵島へ調査に出かけました。
彼ら朝鮮王朝の役人が認識した鬱陵島の範囲は、鬱陵島本島と、竹嶼と観音島でした。
現在の竹島は含まれておりませんでした。
それは、彼が残した鬱陵島外圖や、彼の残した記録では、
「晴明の日、高きに登りて遠眺すれば、即ち千里を窮(きわ)むべくして、更に一挙の石一撮の土なし」とし、
鬱陵島検察日記には「四望して海中にうかぶに一点の島嶼(とうしょ)の見形無し」と記し
現在の竹島を鬱陵地方の範囲として認識していませんでした。
また、1900年、どうように鬱陵島に派遣された禹用鼎は鬱島記をのこしましたが、
かれもやはり、鬱両地方の範囲を150里程度とし、現在の竹島をその領域に含んでいると考えておりませんでした。

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