2010年3月20日土曜日

天城の調査と竹嶋版図所属考

http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1266408257/551
「竹島」(松島、鬱陵島)が朝鮮領であることはいうまでもない。「竹島外

一島」の外一島が現在の竹島(リャンコ島、子山島、于山島、独島)であるこ
とも明らかである。
 1877年の太政官達は「本邦関係無之」といい、1880年の軍艦天城
の調査結果は「古来我版図外の地」と記すのであった。

→軍艦天城の調査以前には、竹島考証の記述からわかるように、この松島が何であるか明確でなく、この調査によってはじめて事情が明瞭となったと記されています。つまり、天城の調査にによって、版図外の地と記されたのは、現在の鬱陵島である”松島”と、竹嶼である”竹島”であり、江戸時代の松島つまりリアンコールド岩でないことは、竹島考証や竹嶋版図所属考を読めば明白です。また、これらには、戦艦天城の調査を踏まえ、一名松島一名竹島朝鮮鬱陵島と記してあることをどうやら意図的に内藤氏は隠しているのでしょうか?また、天城の調査後の太政官指令に添付された文書は明らかに松島は鬱陵島であることがわかります。また、これ以降、うさん島は朝鮮鬱陵島松島との認識に切り替わっているため、リアンコールド岩を子山島、于山島と認識していたとは到底確認できません。
・竹島(蔚陵島)開拓と竹島考証
・日本の地圖における「于山島」
・1880年の戦艦天城の鬱陵島調査の前と後の公的な地図の変化
・「朝鮮鬱陵島一名竹島一名松島」
・「于山」は再び鬱陵島の古い旧名に戻る。

  こうして竹島はもとより、属領であるリャンコ島(現竹島、独島)も朝鮮
領であることが確認されたため、1905(明治38)年に東京の博文館が発
行した田渕友彦著『韓国新地理』のなかでは、「ヤンコ島」として江原道鬱陵
島の項で記しているのであった。
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 「こうして」ということは、つまり竹島考証や所属考で放棄された鬱陵島松島とボーッソール岩竹島の事を指しますが、現在の竹島であるりゃんこ島を朝鮮領と確認した形跡はありません。また、韓国新チリについては、ヤンコ島は、日本から鬱陵島へ航海する際に危険な岩礁として朝鮮水路誌に鬱陵島とはまた別項目で記載されていることから、記載したと考えられますが、鬱陵島の属領でも韓国領と読み取れる記述はありません。そのため、この岩はアスタリスクをつけて「やんこ島」と紹介した程度とみてよいでしょう。

  1904(明治37)年9月、リャンコ島でのアシカ猟独占を企画した隠
岐の中井養三郎は、リャンコ島が朝鮮領であると信じ、朝鮮政府に貸下請願し
ようと思って上京する。時あたかも日本海でのロシア艦隊との海戦を想定して
いた日本政府は、これを好機に領土編入して竹島と命名したのである。

  地理学者の田渕でさえ韓国領の鬱陵島の属島にして記しているのであるか
ら、隠岐の中井が韓国領であると思っていたとしても不思議ではない。こうし
た事実の上に立つと、竹島を「日本固有の領土」などとは強弁できなくなるの
ではなかろうか。

 内藤正中「竹島(鬱陵島)をめぐる日朝関係史」
 『韓国江原道と鳥取県』富士書店(鳥取)、1999

http://www.han.org/a/half-moon/hm061.html

中井は、国境線を記載しているわけでもない海図をみて、朝鮮領と思った程度であり、この海図を作った部署の長肝付兼行氏からそれが無主地であることを聞いたので、編入にたどり着けました。この編入以前に大韓帝国はリアンコールド岩を鬱陵島の範囲であるとは認識していなかったことは多くの記述から判断できることです。
・西洋の探検家・船舶の鬱陵島”発見”、現竹島”発見”と各種水路誌の記述
・朝鮮の認識していた鬱陵島の範囲-
・朝鮮領土の東限の記述は、鬱陵島竹嶼までで、現竹島は含まれない


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